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「奇跡の干支」3千年以上続く庚子

更新日:2023年5月21日

「十二支」の始まりは「子(ねずみ)」。ねずみは子沢山であるから、「子孫繁栄」の象徴とされ、また、「十二支」はねずみから始まるため、新しい物事をスタートさせるのに縁起が良い年と言われています。


さて、「干支(えと)」を指して、「ねずみ年」と言われることがありますが、2020年の「干支」は、正確には、「庚子(かのえのね)」です。「干支」は、「十干十二支」の略で、「十干」とは、「甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)」のことで、「十二支」とは、「子(ねずみ)・丑(うし)・寅(とら)・卯(うさぎ)・辰(たつ)・巳(へび)・午(馬)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(いのしし)」のこ

とです。これらを組み合わせた60周期の数詞を「干支」という訳です。


干支(現代語訳)
干支(現代語訳)


現代では、「十二支」を12種類の動物として捉えていますが、実は、「十二支」はもともと動物とは無関係で、本来は、方角や時刻を表すものです。例えば、「子」は北の方角を指し、子の方角(北)から午の方角(南)に結ぶ線を「子午線」と呼びます。また、子供の頃は、怪談話で出てくる化け物や幽霊の活動時刻、「草木も眠る丑三つ時…」に恐怖で震えたものです。(「丑」は昔の時刻で、現在の午前一時から三時)




 


ところで、昨年(2019年)、私は、48日間の中国書跡巡りをしました。その中で、たくさんの感動と発見がありました。その中の一つに、漢字のルーツである甲骨文字との出会いがあります。「甲骨文字」は、現在、考古学的に実在が確かめられている中国最古の王朝である「殷」王朝(B.C.17—B.C.11末頃)時代の文字で、亀の甲羅や獣の骨などに刻まれているため、「甲骨文字」と呼ばれます。当時の王朝では、王自身の安否や夫人の出産、祭祀や狩猟などの王の行為、また、収穫や降雨の有無など自然のこと、さらには戦争の可否など、様々なことを占いによって決定していたと言われています。


そして、その結果を甲骨に刻んで記録しました。この記録によって、今に生きる私たちは、古代の王朝や人々の暮らし・思想などを知ることが出来ます。しかし、実際には、それらが偶然、運よく発見されることがあって、根気よく丁寧な発掘作業と優秀な専門家による地道な調査研究が発表されて、ようやく、はじめて私たちの知るところとなるのです。


この甲骨文字発見も奇跡のエピソードがあります。この文字が刻まれた亀甲や獣骨のかけらが発見されたのは清朝末年(1899年)のある日のこと。河南省安陽の村の農民たちが土地を耕していると土の中からしばしば記号のような模様が刻まれた骨のかけらが出てきました。当時、農民たちは、これに「竜骨」と名づけ、漢方薬の原料として、安く薬屋に売り、生活の助けとしていたそうです。これをたまたま手に入れた、王懿栄(1845-1900=金石学者・清朝の国子監長官)とその食客・劉鉄雲(1857-1909=作家・考古学者)が気づき、彼らはこれを収集、研究し、ついに、これが殷代の文字であることを突き止めます。


甲骨刻辞六十甲子表(骨片)
甲骨刻辞六十甲子表(骨片)

干支(甲骨文字)
干支(甲骨文字)


その後も研究者たちの素晴らしい功績により解読が進み、甲骨文字に書かれた王族の名前などから、幻とされていた殷王朝が、『史記』(前漢時代の歴史家・司馬遷によって編纂された中国の歴史書)の記載通り、実在した王朝であることが判明したのです。(同時に、『史記』に書かれた内容が、ただの伝説ではなく、事実であることも証明されました。)そして、この骨片が発掘された河南省安陽の村は、殷の時代の首都であったことが分かり、「殷墟」 (いんきょ)と呼ばれるようになりました。近年までに、ここから発掘された甲骨は十六万片以上、四千五百ほどの記号が見つかり、そのうち千五百以上の単語が解読されています。


その「殷墟」を訪れた時、私は、あまりに膨大な甲骨文字に驚きます。そして、思わず我が目を疑った一片の動物の骨。なんと、そこには、現在も使われている干支が刻まれた甲骨文字が鮮やかに残されていたのです。これが3000年の時を経て発見され、解読され、そして、今年の干支、「庚子」が3000年以上も前から続いていることを知るのです。奇跡の連続が絶えないこの美しい世界がこの先幾千万年続きますように。


甲骨文字についてはこちらの記事をご参照ください。

 

(本稿は奈良新聞連載エッセイ「暮らしの中の書」2020年1月9日掲載分)



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