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「中国書跡巡りの旅」秦の始皇帝の文字統一、壮大な歴史継ぐ漢字

現在、私は、中国書跡巡りの旅をしています。地図では、中国大陸の右側を一周しているようなイメージです。滞在した各都市から周辺の都市へも高鉄(新幹線)やバスで巡ったので、かなりの移動距離になりました。今は北京に滞在中で、この旅も終盤を迎え、荷物や気持ちの整理を始めているところです。


中国各地を巡っていると、同じ地域に、異なる時代の王朝や遺跡が重なり、その各時代の文明の特色が、時代の変化と共に発展しながら、また、異なる文明を持つ国々や民族から様々に影響を受け、融合し、本当に豊かで、複雑な文明を築いてきたことがよく分かります。同時に、壮絶な侵略、征服が繰り返されてきたことも想像され、各地に残された、今はこの時代の風景に溶け込んだ、高くそびえる頑丈な城壁の、一つ一つ積み上げられた煉瓦から、この豊かさの背景にある人々の苦労の歴史も感じるのです。


ところで、私は中国語が話せません。中国語の発音を聞き取ることは、本当に難しい!でも、英語が伝わる他の欧米諸国を旅するよりも、ずっと楽なのです。中国の人たちは、とても優しくフレンドリーで、言葉が伝わらなくても、いつも親身になって助けてくれます。私は、これまで色々な国を旅してきましたが、その中で、中国が最も旅人に優しい国だと感じます。毎回、驚くべき親切エピソードが満載で、いつか改めてお伝えしたいところです。さておき、私にとって、中国の旅が楽だという最大の理由、それは、中国が「漢字」の国だからです。


漢字は約三千年前に、中国で生まれ、今日まで書体の変遷を繰り返しながら、受け継がれてきました。古代の文字が現在も使われている例は、世界中で「漢字」だけと言われています。漢字が日本に伝わったのは、3-4世紀頃ですが、現代の日本に暮らす私も、中国の漢字を見て、およそ何が書かれているのか、イメージ出来ます。日本語の字面を見ていると、ひらがな・カタカナが漢字の意味を補完しているようですが、しばらく漢字だけで過ごしていると、一字ごとに意味を伝える漢字を絵的に判断できるようになり、書かれた内容が理解できるようになります。文字が読めない外国人が書道を楽しむことが出来るのは、筆墨の妙だけではなく、漢字そのものが持つ力も、味わっているのかも分かりません。


さて、図らずも今回の書道遺跡を巡る旅は、そのまま中国の歴史を辿る旅にもなりました。今年は、中華人民共和国成立70周年、甲骨文字が安陽殷墟で発見されてから120年という節目で、各地で、中国の歴史、甲骨文字に関する展示を目にする機会があり、大陸を移動しながら、悠久の古代中国史から混沌とした近代史、そして漢字の成立過程を見て回ることが出来ました。


その中で、圧倒的な影響を感じるのは、秦代(B.C.221- B.C.207)。中国を初めて統一した秦の始皇帝(B.C.259-B.C.210)の威光があらゆる場面で光り輝いています。始皇帝の中国統一は、中国の歴史の重要な分岐点です。当時の古代中国は、群雄割拠、戦乱の世で、七つの強国(斉・楚・燕・韓・趙・魏・秦)がひしめき、互いに熾烈な争いを繰り広げていました。その中で、始皇帝は、諸国を次々と滅ぼし、紀元前221年、ついに天下統一を成し遂げたのです。そして、その際、貨幣、車軌、度量衡など、全国を統治するのに便利なように、様々な統一を行ったことは有名な話ですが、その中で、最も特筆すべきは、文字の統一!中国の広大な大地に、たくさんの民族がそれぞれの歴史・価値観をもって、それぞれの文化を形成しているところに、絶対的な基準が出来た訳です。そして、今もそれを拠り所にして、数千年後の旅人が、中国各地に残された名筆名跡の一筆一筆に、心を震わして止まないのです。


始皇帝陵を守るために作られた「兵馬俑」(兵馬俑博物館 西安)
始皇帝陵を守るために作られた「兵馬俑」(兵馬俑博物館 西安)

始皇帝が北方の匈奴に対する備えとして築いた「万里の長城」(慕田峪長城 北京)
始皇帝が北方の匈奴に対する備えとして築いた「万里の長城」(慕田峪長城 北京)


「一筆千秋後人心間」、私の好きな言葉です。私は、中国の壮大な歴史の中で色褪せることのない墨痕を頼りに、夢のような毎日を過ごしました。しかし、いつも旅の終わりは夢が醒めるような寂しさと、安堵。私は、今回、得ることが出来た新たな発見とともに、また、書の旅を続けていきます。

 

(本稿は奈良新聞連載エッセイ「暮らしの中の書」2019年12月12日掲載分)



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