中国を旅していて、いつも難しいと感じるのは、郊外への移動です。広い世界の中で、どうしても行きたい場所がピンポイントであって、そこを目指すことは、「なんて壮大な夢かしら、人生と同じだ、挑戦だ、大冒険だ!」なんて、大袈裟に考えると、途端に面白く、ウキウキ気分が増し、(実は案外簡単なことでも)達成感の度合いが変わってきます。
本日は、隷書の傑作を見るために、「漢中」へ行った時のお話です。中国陝西省漢中市は、西安市と宝鶏市の南西に接する古代からの要地で、黄河の最大支流漢水(漢江)の中流に位置することから、「漢中」と呼ばれています。中国古代史ファンならずとも、この土地が、重要な歴史舞台であったことは、とても良く知られていることでしょう。
中国の最も古い歴史書『史記』の有名なエピソード、秦王朝末期の「項羽(紀元前232-202年)と劉邦(紀元前256?—紀元前195年)」の争いの中で、当時の政治の中心地「関中」の王座をめぐる争いがあります。この時、知略で勝った劉邦ですが、戦力で項羽に及ばず、結局、関中の僻地に左遷されてしまいます。その土地こそが、「漢中」なのです。そして劉邦は、紀元前206年、「漢中王(漢王)」となり、この土地を足がかりに、紀元前202年、漢王朝を打ち立て、ついに天下統一を果たします。
左遷された辺鄙な土地が、中国史上最も繁栄した時代の一つである「漢」の由来となったのです。さて、劉邦が漢王に即位した際の宮殿跡に建てられたという「古漢台」は、1958年に漢中市博物館となり、今では、漢中市のシンボル的存在になっています。そこが、今回の旅の目的の一つである、隷書の傑作、「石門十三品」が、保管・展示されている場所なのです。
「石門十三品」は、およそ2000年前に掘られた世界最古の人工トンネルとされる「石門(せきもん)」の内壁と、その周辺の崖に刻まれた文字から、特に優れた十三種類を指します。このトンネルは、長さ16m、幅4m、高さ3.5mあり、褒斜道(褒斜桟道)と呼ばれる、河谷沿いに設けられた全長約250kmの桟道の南端にあります。現在では「石門桟道」として復元され、観光できるようになっており、漢中市博物館で「石門十三品」を鑑賞した私は、その足で、その刻石が元あった場所、「石門」トンネルを目指しました。
「桟道」とは、断崖に穴を穿ち、その穴に柱を差し込み、その上に板を敷いた橋のような道で、現代の私たちが見ると、危険すぎて、出来ればその道を通りたくない…。断崖絶壁に危うい小さなスペースがせり出しているだけで、「道」と呼ぶことさえ躊躇してしまいます。しかし、当時、その桟道は、「関中」と「漢中」を結ぶ主要な道の一つであったそうです。というのも、「関中」と「漢中」の間には、しい秦嶺山脈がそびえ、これを避けて大回りするには、時間がかかりすぎますし、また、何万もの馬と荷車の軍隊が山道を越えることはできません。先に、項羽が劉邦を「漢中」に左遷したことを書きましたが、その際、数万人の劉邦軍が「漢中」を目指し通った道も、この「褒斜桟道」と言われています。途中、谷底に落ちた者、逃げ出した者も数知れず…。
さらに、後の三国時代には、諸葛孔明(181-234年)が、魏を撃つため北へ進軍した際の「漢中」から「五丈原」までのルート、唐代には、玄宗皇帝(685-762年)が「安禄山の乱」を避け、四川へ下る際、この褒斜桟道を通ったと言われています。歴史に残る、数々の命がけの舞台、この場所に立ち、それらを思い巡らせて、感傷に浸ります。
そして、この道を讃える詩や銘文が書かれているのが、摩崖碑に書かれた隷書の傑作、「石門十三品」と呼ばれる刻石群なのです。歴代の高官や文人たちによって書かれたそれらの文字は、石門の自然の岩肌をそのまま生かした摩崖書の野趣あふれる、力強く素朴な味わいがあって、この場所の、この道の、この歴史が、そのまま表されたような、生命力に充ち満ちて、全てが間違いなく最高傑作だと思うのです。
実は、1970年代、石門付近に褒河ダムが建設されることにより、なんと、これらの貴重な文字が水没してしまいます。そこで助け出された文字たちが、漢中市博物館に展示されている「石門十三品」という訳なのです。「書」には、どこをどう切り取っても興味深い物語が広がります。人間が輝かしく、たくましく生きてきた証があります。隅々細部に至るまで、全く私たちは飽きることがありません。
(本稿は奈良新聞連載エッセイ「暮らしの中の書」2020年4月30日掲載分)